すべての人にやさしい滑り出しとなりますように「初めて創作を人前に出したときのこと」/いそふらぼん肘樹の場合

文/いそふらぼん肘樹
ちなみに私は結構明確にその瞬間を覚えている。
エイヤで投稿した文法もメチャクチャな小説
あれは私が小学生だったころ。
当時はインターネットも比較的小さく穏やかな世界(いや、ブラクラURLを踏んで無限ポップアップ地獄とか最悪なことはあったが)であり、個人運営のサイトでの交流が一般的であった。私が小説を発表したのはあるゲームのファン交流サイトで、ファンが小説やイラストを投稿するために掲示板が設置されていたのである。
今思うとかなり不思議だが、小説のメインにしたのはそのゲームで最も好きだったキャラクターというわけでもなかった。
まして文章を書く経験すらないところから「よし! こいつで小説を書いてみよう!」と思ったモチベーションは一体どこから湧いていたのだろう……。
純粋に「みんな小説とか絵を投稿してる! 私もやってみたい!」という興味だけで飛び込んだような気もする。
ともかく文法もメチャクチャでPC操作も不慣れなまま、数百文字な上に壮絶に尻切れトンボな小説を書き上げた私は「第一話」としてエイヤで投稿したのだった。
はっきりと覚えているのだが、カギカッコの打ち方がわからなかったためセリフを“[ ]”で囲んでいた気がする。恐ろしい話だ。
いや、実際のところは他の投稿者もおそらく殆どが小学生で、結構みんなエキセントリックな展開や文法で好き放題書いていたからそんなに気にならなかったのであろう。
昨今は作品を公開する場が初っ端からpixivを始めとする大手SNSである人も多いと思うが、いきなり小舟で大海に漕ぎ出すようなもので、なかなか不安ではなかろうか……。
しかもその大海にはもう巨大で豪華な船がうろうろしているのだから。
小説をアップした後はしばらく何度も何度もリロードをしたが、もちろんそんなにすぐ誰かに見てもらえるというわけでもなかった。
しかしながら、なぜか私の胸は「小説を、アップしてやったっつーの!」という満足感でいっぱいで、お気に入りの手帳にマジックで「○○(ファンサイトの名前)に小説を書いた!」とメモしてみたり、母親に「パソコンで小説を書いて、○○ってところに載せたんだー!」と報告したりしていた。
どこまで恐れを知らず、そして無邪気なのだろうか。我ながら抱きしめてやりたい。
なんと小説にコメントがついた
アップしたというだけで大満足していたのだが、なんと数日後私の小説にコメントが残されていた。
「最後ドアを開けて入ってきたのは誰なのでしょうか? 続きも楽しみです!」とかなんとか、そんなコメントだったと思う。
私は衝撃を受けた。あんなに待ち望んでいたコメントだったのに、「自分の小説を読んでくれて、かつ続きを楽しみにしている人がいる」ということが全く信じられなかったというか、そんなことってあるだろうか!? と驚愕したのである。
私が、私の頭の中だけに閉じ込めている時は誰にも知られていなかった物語が、世の中に飛び出して行って、誰かに届いたのである。
そして私は、なんと、続きを書かなかった。
人生初の未完失踪である。
まだ1話だし、なんならカップリングの両方がまだ出揃ってすらいなかった。
え!? そこは書けよ! なんかコメントもらってやる気が出たとかそんなんじゃないのかよ! 事実は小説より無残なりである。
まあ何と言おうか、ギャラリーを得たことによって、好き放題思いついただけで小説を書いていた私は急に「えっ……続きとか、何も考えてなくて~……」とドギマギしてしまったのであろう。物語の全体像を考えずに描き始める悪癖は、この頃から今の今まで治っていない。
処女作を書きかけのまま失踪という鮮烈なデビューを飾った私だったが、一度の投稿で弾みがついたのだろうか。その後しばらくはリレー小説に参加したり、短編小説をコンテストに送ってみたりとものすごく元気いっぱいに小説を書き続けていたと思う。
あの時、私の小説にコメントが付かなければ、ちゃんとその後も続きを書いていたのだろうか? はたまた誰も読んでくれないから、と結局放り出していたのだろうか。
ともかく、小さなコミュニティで、自分の不格好な物語が誰かの手に渡るという体験を傷付かないまま味わえたことは、私にとってとても幸福なことだった。
創作を誰かに見てもらうというのは、結果はどうあれ自分がどんな作り手であるかが形作られていく行為でもあると思う。たくさんの人に読んで欲しいのか、はたまた誰かひとりに共感してもらいたいのか。
これから創作を始めて、人に見せるという体験が待っている人すべてに、やさしい滑り出しが待っていることを願ってやまない。
