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イラストレーターとして生き残る秘訣とは?クリエイター前田浩孝さんロングインタビュー

今回登場していただくのは、現在放映中のアニメ『Dance with Devils』のキャラクター原案を務め、『Vitaminシリーズ』『影牢シリーズ』をはじめとした、ゲームのキャラクターデザインで知られる前田浩孝さんです。1977年生まれの前田さんは、3Dキャラクターデザイナーとしてキャリアをスタートさせながら、イラスト、写真、ファッションデザインをこなすマルチクリエイター。イラストをメインにさまざまな分野で活動する前田さんの姿は、みなさんにとって良いお手本となるのではないでしょうか?
前田さんが最初になりたかった職業
──前田さんは最初からイラストレーターになりたかったんでしょうか?
いえ、どういうものか分かってないまま、芸術家になると言っていました(笑)。
同時に、押井守さんが本当に大好きで。高校2年生のときに「パトレイバー2」を見て、これをいつか自分でマンガ化したいと思っていました。押井さんとは、その約10年後に一緒に仕事をさせていただくことになるのですが、当時は嬉しくて「あーもう思い残すことないな……」と本気で思いました(笑)。
同時に、押井守さんが本当に大好きで。高校2年生のときに「パトレイバー2」を見て、これをいつか自分でマンガ化したいと思っていました。押井さんとは、その約10年後に一緒に仕事をさせていただくことになるのですが、当時は嬉しくて「あーもう思い残すことないな……」と本気で思いました(笑)。

前田さんが影響を受けた作家さんとは
──影響を受けた作家さんはいますか?
「絵ってすごいな」と思ったのは、カンディンスキーとモンドリアン。コンポジションシリーズってありますよね。ここにあるものには全部意味がある、みたいな理系的な絵というんでしょうか。ダリとかミュシャのような美しい絵というのも好きでしたが、得体のしれない美術のすごさっていうのは、完全にそのお二方です。バランス感覚と数式が見えそうな雰囲気。理屈じゃなく直感ですごくかっこいいと思ったんです。
──キャラクターイラストだと誰かいらっしゃいますか?
村田蓮爾さんですね。学生時代に村田さんの同人誌を友人に見せてもらって、それで村田さんの絵を初めて見ました。ゲーム『豪血寺一族』のイラストとか、リアルなのにカワイイ。こういう絵が世の中にあって、仕事としてできるならその世界に行ってみたいなと思いました。
──1990年代はゲームのキャラクターイラストを描く人が台頭し始めた時代ですよね。
当時『カプコンイラストレーションズ』って画集があって、そこに載ってたAKIMANさんや西村キヌさん、BENGUSさん、SENSEIさんといった方々にはすごく驚きました。あそこでまたひとつキャラクターイラストの世界が変わったと思います。人物デッサンを元にしながら、デフォルメでキャラクターイラストにできる。しかも塗りや光の当て方とかもかっこ良いっていうのを提示されましたし、多くの人に絶大な影響を与えたと思います。自分もとても影響を受けました。
劇的な展開を迎えた仕事のキャリア
──最初のお仕事は何ですか?
当時やっていた個人サイトに絵を載せていたんですが、その時ひとつだけ仕事依頼がきまして、1枚5,000円で小説のイメージイラストを描いてほしいと。
以降、半年くらいダメ出しが続くんですが、ある日その人から直接会おうと言われて、喫茶店で待ち合わせたんです。
そしたら同年代くらいの若い人と、ヒゲのおじさんがいて。ヒゲのおじさんは依頼主だったんですが、若い人からいきなり「エニックス」と書かれた名刺が出てきたんですよ。
そしたら同年代くらいの若い人と、ヒゲのおじさんがいて。ヒゲのおじさんは依頼主だったんですが、若い人からいきなり「エニックス」と書かれた名刺が出てきたんですよ。
──何が起きてるか信じられませんよね(笑)。
どうやらそのおじさんが、小説に使うって話だった絵を、勝手にキャラクターデザインのコンペに回していたらしいんです。いいなと思ったイラストレーターの面談をして全国を回ってると。
その10日後くらいに「君に決まったから来月東京に来てくれ」と連絡が来ました。
その10日後くらいに「君に決まったから来月東京に来てくれ」と連絡が来ました。
──劇的な展開ですね!
そこからいきなりキャリアスタートです。最初の仕事は、3ヶ月半で3Dキャラクターの三面図を70体描く仕事。やりながら覚えて、結局5ヶ月以上かかってしまったんですが、本当に大変でした。最終的には300体くらいデザインしました。
台湾のゲームショーで発表会をやったときは、僕も呼ばれたり、かなりの数の取材対応をして、向こうのゲーム雑誌の表紙に僕の絵が使われたりもしました。25、6歳の、日本ではまったく無名のイラストレーターがいきなり海外デビューという…(笑)。
台湾のゲームショーで発表会をやったときは、僕も呼ばれたり、かなりの数の取材対応をして、向こうのゲーム雑誌の表紙に僕の絵が使われたりもしました。25、6歳の、日本ではまったく無名のイラストレーターがいきなり海外デビューという…(笑)。
──それはすごい。その仕事が終わったあとはどうしましたか?

『影牢II -Dark illusion-』(2005年、テクモ)ってゲームがあるんですが、そこから声がかかりまして。コンペを経て、『影牢II』にキャラクターデザインで参加することになりました。パッケージは3Dイラストですが、説明書の表紙などには僕のイラストが使われてます。
──お話を聞いていると、いつのまにかゲームのキャラクターデザイナーとしてのキャリアが始まってしまっていた、という風に感じます。
そうなんです。だから目指してたわけじゃなくて、たまたまそのおじさんが声をかけてきて、僕がそれに乗らなければ、この職業には就いていなかった。
「売れるってこういうことなんだ」 転機となった乙女ゲーム
──イラストレーターとして初めての仕事は何ですか?
日本で最初に名前が出たイラストの仕事は、2004年にGAINAXの公式サイトに描いたアスカの絵です。当時、会員だけが見ることのできる「リンクワールド」というサイトに、漫画家やイラストレーターが次に描く人を指名して、友達の輪みたいに広がっていくイラストリレー企画があったんです。そこで本当は別の人が指名される予定だったんですが、その人が忙しいから「お前描かない?」って僕に話をふってくれたんです。それが初めてでしたね。
──そのころ、3DCGの仕事はもうやめていたんですか?
いえ、当時は3D周りが7割、イラスト仕事が3割くらいでした。3D周りの仕事で就職しようか迷ってて、30歳になるまでに自分の方向性を決めようと思ったんです。そのときに、GAINAXのアスカの絵を見た人からゲームのイラスト仕事が来ました。HuneXの岩崎大介と申します、と。
──それがのちの乙女ゲーム『Vitamin X』(2007年3月29日、ディースリー・パブリッシャー)。前田さんの転機となる仕事ですね。

最初は乙女ゲームとは一切言われてなかったんですよ。会社名で検索したら美少女ゲームを作ってるところで、俺の絵でギャルゲ? と思ったんです。でも会ってみたら乙女ゲームだと。そのときの岩崎がすごく熱くて、それだけ熱意を分かりやすく出す人間は初めてだったので、やってみるかと。ゲームが出るころには30歳くらいになっちゃうけど、2Dゲームも職歴にあるほうが就職には有利だろうし、とか思うくらいの軽さで(笑)。
──(笑)そしたら大ヒット。
今の時代の大ヒットの感覚とはまた違う気もしますが、増えていく依頼と、ゲームが経済番組で取り上げられたり、自分の絵のクレジットカードができるのを目の当たりにして「作品が売れるときってこういう感じなんだ」と初めて思いました。
ゲームコンセプトと僕の絵のコンセプト、そして声優さん方の力がすべて合わさったときに初めて「売れる」という現象が起きるんだと。これはまったくコントロールできるものじゃないなと、すごく感じましたね。それから続編が出て『Lucian Bee's』を手がけて、そのうち岩崎から会社に参加しないかと誘われて、Rejetを設立した……という流れで現在に至ります。
ゲームコンセプトと僕の絵のコンセプト、そして声優さん方の力がすべて合わさったときに初めて「売れる」という現象が起きるんだと。これはまったくコントロールできるものじゃないなと、すごく感じましたね。それから続編が出て『Lucian Bee's』を手がけて、そのうち岩崎から会社に参加しないかと誘われて、Rejetを設立した……という流れで現在に至ります。