アニメを観る目が変わる?一冊! 『映像の原則 改訂版』〜レジェンド本を学ぶ
『涼宮ハルヒの憂鬱』で「イマジナリィ・ライン」を学ぶ

「イマジナリィ・ライン」に関する原則について、きちんと説明を受けて理解すると、それほど難しいことではない、と思う人が多いのではないでしょうか。でも実は、実際に放送されているアニメや映画などでも、「イマジナリィ・ライン」の原則にのっとっておらず、混乱を生む映像になってしまっている作品がたくさんあります。
具体的なタイトルを挙げて「この作品は分かってない!」と書くと角が立つので控えますが、実はとある人気作品のなかで、あえて「イマジナリィ・ライン」の原則に逆らって放送されたアニメ作品があるのです。
それはアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)の「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」という回です。
この回は、1話まるごと「映像シロウトの高校生たちが撮った自主製作映画」という設定で、映像のプロがやってはいけない「お作法」違反をことごとくやる、という一種のギャグ回になっています。監督も編集も映像のシロウトという設定なので「イマジナリィ・ライン」も当然のように踏み倒しまくっています。
たとえば、本編始まって8分20秒頃、男子高校生・古泉イツキが住宅街を歩いているシーン。路肩から悪い宇宙人・長門ユキが現れ、イツキと出会います。
このふたりの会話中、イツキは画面の右を向いて話しているのですが、向かい合っているはずのユキもなぜか同じく右を向いているのです。
また、イツキの映っているカットでは背景が「車の停まっているビル」なのに、ユキの映っているカットでは背景が「瓦葺の和風の塀」になっています。「イマジナリィ・ライン」が守られていれば、同じ向きから撮っていることになるので、背景は同じになるはずなのですが……。
どうやらそれぞれのカットを撮影する際、「イマジナリィ・ライン」を超えてしまったため、向かい合っているはずのキャラが同じ方を向き、一方背景はまったく別のものという大混乱のシーンができあがってしまったようです。
毎カット毎カット「イマジナリィ・ライン」を超えてしまっている結果、
・イツキとユキは向かい合っているのか? 横並びなのか?
・ふたりはそれぞれどこへ向かおうとしているのか?
・このシーンの場所は車が停まっているビルの前と和風の塀の前、どちらなのか?
・そもそもふたりは同じ場所にいるのか? 違う場所にいるのか?
などなど多くの疑問がわき、不可解なシーンになってしまっています。
これが意図的ではなかったら大変なことですが、本作の場合、記念すべき第1話であえて「なんだこのアニメ?」と視聴者を混乱させるのが狙いだったため、上記の「イマジナリィ・ライン」侵犯も"意図的な演出"になっています。
これは、まさに「映像の原則」を逆手に取った例と言えるでしょう。実際、ちぐはぐな映像が続くことで「シロウトが作った無茶苦茶な映画っぽい感じ」が強調されていて笑えます。
この作品では、「イマジナリィ・ライン」のほかにも『映像の原則 改訂版』で書かれている「やってはいけないこと」をあえてやっているので、映像の「お作法」について具体的に理解することができます。
本書を読んだ後、ぜひあわせて見てみてください。
具体的なタイトルを挙げて「この作品は分かってない!」と書くと角が立つので控えますが、実はとある人気作品のなかで、あえて「イマジナリィ・ライン」の原則に逆らって放送されたアニメ作品があるのです。
それはアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)の「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」という回です。
この回は、1話まるごと「映像シロウトの高校生たちが撮った自主製作映画」という設定で、映像のプロがやってはいけない「お作法」違反をことごとくやる、という一種のギャグ回になっています。監督も編集も映像のシロウトという設定なので「イマジナリィ・ライン」も当然のように踏み倒しまくっています。
たとえば、本編始まって8分20秒頃、男子高校生・古泉イツキが住宅街を歩いているシーン。路肩から悪い宇宙人・長門ユキが現れ、イツキと出会います。
このふたりの会話中、イツキは画面の右を向いて話しているのですが、向かい合っているはずのユキもなぜか同じく右を向いているのです。
また、イツキの映っているカットでは背景が「車の停まっているビル」なのに、ユキの映っているカットでは背景が「瓦葺の和風の塀」になっています。「イマジナリィ・ライン」が守られていれば、同じ向きから撮っていることになるので、背景は同じになるはずなのですが……。
どうやらそれぞれのカットを撮影する際、「イマジナリィ・ライン」を超えてしまったため、向かい合っているはずのキャラが同じ方を向き、一方背景はまったく別のものという大混乱のシーンができあがってしまったようです。
毎カット毎カット「イマジナリィ・ライン」を超えてしまっている結果、
・イツキとユキは向かい合っているのか? 横並びなのか?
・ふたりはそれぞれどこへ向かおうとしているのか?
・このシーンの場所は車が停まっているビルの前と和風の塀の前、どちらなのか?
・そもそもふたりは同じ場所にいるのか? 違う場所にいるのか?
などなど多くの疑問がわき、不可解なシーンになってしまっています。
これが意図的ではなかったら大変なことですが、本作の場合、記念すべき第1話であえて「なんだこのアニメ?」と視聴者を混乱させるのが狙いだったため、上記の「イマジナリィ・ライン」侵犯も"意図的な演出"になっています。
これは、まさに「映像の原則」を逆手に取った例と言えるでしょう。実際、ちぐはぐな映像が続くことで「シロウトが作った無茶苦茶な映画っぽい感じ」が強調されていて笑えます。
この作品では、「イマジナリィ・ライン」のほかにも『映像の原則 改訂版』で書かれている「やってはいけないこと」をあえてやっているので、映像の「お作法」について具体的に理解することができます。
本書を読んだ後、ぜひあわせて見てみてください。
「イマジナリィ・ライン」チェックは面白さを測るバロメータになる?
個人的には「イマジナリィ・ライン」を超えるか超えないか”だけ”で作品の面白さが極端に変わるかというと、そんなことはないと思います。「イマジナリィ・ライン」は、あくまでも作品を面白くするための積み重ねのひとつに過ぎません。
ただ「イマジナリィ・ライン」に配慮されていない作品はたいていほかの映像の原則も守っていないので、映像に違和感があったり、理解しにくかったりすることが多く、そのうえ動画枚数や作画、キャラの演技などほかの部分もチープになっている傾向があります。
逆にそういった映像の「お作法」に細かく気を配っているスタッフの手掛けた作品は、総じて質がいいことが多いように思います。上記の「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」も(ネタ回として)完成度が高い作品だと思いますが、「映像の原則」を知っているスタッフだからこそ、あえてそれを外す面白さを表現できたのです。
つまり、「イマジナリィ・ライン」が守られているかどうかは"結果的に"作品の面白さを測るバロメータのひとつになるのではないでしょうか。
ただ「イマジナリィ・ライン」に配慮されていない作品はたいていほかの映像の原則も守っていないので、映像に違和感があったり、理解しにくかったりすることが多く、そのうえ動画枚数や作画、キャラの演技などほかの部分もチープになっている傾向があります。
逆にそういった映像の「お作法」に細かく気を配っているスタッフの手掛けた作品は、総じて質がいいことが多いように思います。上記の「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」も(ネタ回として)完成度が高い作品だと思いますが、「映像の原則」を知っているスタッフだからこそ、あえてそれを外す面白さを表現できたのです。
つまり、「イマジナリィ・ライン」が守られているかどうかは"結果的に"作品の面白さを測るバロメータのひとつになるのではないでしょうか。