自己投影しててキモい?クリエイターにとって「キモい=強い」/カレー沢薫の創作相談

自己投影してキモいと叩かれないか不安
「いつから自分がキモくないと錯覚していた?」
ありとあらゆることが不平等な世の中において、唯一平等と言えるのが「内心の自由」です。
我々は法律によりやってはいけないことを厳しく制限されていますし、コンプラ意識の上昇により倫理的にも、常識的にもやってはいけないことや言ってはいけないことは増える一方です。
そんな中でも「脳内」だけは何をしようが自由、その場に能力者がいない限りはそこでどんな祝祭を行おうと周囲にバレることはありません。
そして部屋に1人でいるときに実弾の発射も恐れぬ豪快な屁をこいたり、誰もいないオフィスでつい全裸になったりしてしまうのと同じように、脳内での妄想も「こんなことを考えていると知れたら拙者社会的死亡不可避www」という、もうそれ自体がキモい「恥ずかしいこと」を考えがちです。
どれだけ都合の良いことやエロいこと、人としてどうかということを考えてもそれが周囲に知られることはなく「キモい」などと思われることもありません。
そういう黙っていればバレないキモいことをわざわざ文章や絵で可視化させ、他人に見せちゃうのが「創作者」なのです。
そのキモさが面白いかつまらないかの差があるだけで、基本的に創作者は「脳内露出狂」という特殊性癖者なのです。
よってまず「もしかして自己投影しててキモイんじゃないか」ではなく「基本的にキモイ」と考えを改めましょう。「自己投影しててキモい」は後付け
ただ露出狂も一人でやっていたら変態ですが、ある程度仲間を集めると「ヌーディスト」という一派になりますし、先日WBCで盛り上がった野球も冷静に考えれば球体を木の棒でぶん殴って一喜一憂という不思議な儀式なのですが、それを多くの人が面白いと感じているから競技やエンタメとして扱われているのです。
同じように創作もやる人口が多いので趣味の一つとして認識されてますが、やはりやっていることは出さなくても良い物を出しちゃっている人なのです。
創作がキモいというのは車にタイヤがついているレベルの標準装備であり、創作に対し「キモい」という文句は「息してる奴マジでムカつく」と言っているようなものです。
つまりそんなことを言うのは「何をしても気に入らない人」であり、目の前の気に入らないものを腐すのに「自己投影しているから」という理由を後付けしているにすぎません。例え己を完全に殺した作品を出したとしても気に入らなければ「作者の魂の叫びを全く感じない、こんな茹でてない冷凍うどんのようなものを人様にお出しする神経がキモい」と言い出すと思います。
誰でも生理的に受け付けないジャンルというのはあり、プロが料理すればエビアレルギーの人でもエビチリが食えるというわけではないのと同じように、どんなに超絶技巧で書いても夢アレルギーの人が夢小説を読めば「自己投影しててキモい」という感想になるのです。
多くの人がそういうものを見てしまったときに胸で十字を切って「見なかったことにしよう」と、何も言わずにもっと自分向けの物を探しにいくのに対し、「この小説マジキモイ」と晒したり、果ては作者に攻撃をしかけたり、「自分が嫌いなものに時間を使ってしまう人」というのは極めて不自由であり損な性分と言えます。
せっかく脳内を具現化して世に出せてしまうという「自由さ」と「度胸」を持って生まれたのに「イマジナリー不自由な人に己を緊縛させて自由を失う」というのは、ある意味自己投影創作公開よりも特殊プレイなので、それが気持ちいいというのでなければやめた方が良いでしょう。
叩くのは、恥を超えた者への嫉妬
それに「叩く」という行為もただ相手が嫌いという感情のみで行われているとは限りません。
私は「自分なんかと付き合う推しは解釈違い」ゆえに、バリバリの夢人(ゆめんちゅ)の方に対し「えろう自分に自信があってよろしおすドスな」と非実在京都人のような意地悪なことを考えてしまうところが正直あるのですが、そこには常に「自分にできないことができてうらやましい」という嫉妬心があります。
つまり「こんなもの書いて恥ずかしくないのか」という文句は裏を返せば「何で『恥』にここまで完勝できるんだよ畜生め」という嫉妬の現れだったりもします。
創作というのは「恥」との闘いであり、恥に負けた敗者の屍の上に唯一無二の個性を放つ創作者が君臨している世界です。
この世に俺が見たい作品がないから、俺の俺による俺の性癖全部乗せ作品を作り出してやるぜ、という意気込みで机に向かっても、いざ自分で書こうとするとキッスの一つも恥ずかしくて書けないということはありますし、「これを公開するなんてとんでもない!」とRPGで重要アイテムを捨てるときのようなメッセージウィンドウが出てお蔵入りということも珍しくありません。
よって世に出された創作に対する「よくそんなものを出せるな」という声は悔しくて素直に「しびれるあこがれる」と言えないDIO様のモブ取り巻きのようなメンタルの現れとも言えます。
確かに、読み手のことを全く考えていない、取れたての自己投影と願望をそのままお出ししたオーガニック創作があることも事実です。
しかしそれに対してですら「でもコイツ書いてる間楽しかっただろうな」という「悔しさ」がゼロではなかったりします。
もし今後作品を叩かれることがあったとしても「自分も他人に嫉妬されるぐらいの作品を描けるようになった」とポジティブに捉えましょう。
実際叩かれる作品というのは「大勢の人に読まれた」「良くも悪くも人の琴線に触れる内容だった」の2パターンなので、その時点で閲覧数10、ブクマ0、コメント-8な作品より優れていると言えます。
クリエイターにとって「キモい=強い」
また「キモい」というのは単に嫌悪感を表す言葉ではなく「ヤバい」ぐらい色んな意味を含んだ言葉です。
最近映画が好評だったスラムダンクでも、クールで仲間意識をあまり見せなかった流川が「今日もあれやりましょーよ おれたちはってやつ」と言い出し、湘北のメンバーが円陣を組んで「俺たちは強い!」と叫ぶ名シーンがあります。
あれはもしその場にいたのがバスケ選手ではなく創作者であれば「俺たちはキモイ!」でも十分通る場面です。
どこに通るかは不明ですが、クリエイターにとって「キモイ=強い」であることはあながち嘘ではありません。
人間は嫌悪だけでなく自分の理解の範疇を超えたものに対しても気持ち悪いと感じるものです。
よって「キモイ」という感想がでるということは「常人にない発想を持っている」可能性もあり、それはクリエイターにとって褒め言葉以外の何物でもありません。
まだキモさの方が勝っていて面白いといえるものでなかったとしても「素質はある」と言えるでしょう。
また「人に見せるのに躊躇がある」というのはそれだけ良い物が書けるようになったということでもあります。
自分の書きたいもの、自分の性癖を存分に出せた作品だからこそ「独りよがりになってないか」という悩みが生まれてくるのです。
最初から、他人の目だけを気にして書いた当たり障りのない作品だったら「自己満足になりすぎてないか」という葛藤は生まれません。
そして何より、楽しんで書けたからこそ「楽しいのは俺だけなんじゃないか」と悩むのです。
よってあなたが今更「これは他人から見てどうなんだ?」と悩みだしたのも、それだけ自分の書きたいものを楽しんで書けており、それでいて「自分だけじゃなく読む人も楽しませたい」という気持ちがあるからだと思います。
書き手も読み手もウィンウィンの創作を書こうと思ったら「他人から見てこれはどうなんだ?」という悩みが消えることはありませんが、その自問自答があるから読者から見ても面白い作品が生まれているともいえるので、その葛藤は悪い物ではありません。
今後も葛藤しつつも自分が楽しむことも忘れない創作ライフを続けていただければと思います。
もしそれでキモいと言われたとしても「キモい=強い」であることを思い出し「ちょっと今回は才能が溢れすぎちゃったかな?」と考えましょう。

オタク歴も20年が見えてきている直近は男女カプ沼に住んでいる雑食者です。
あの頃のインターネットで女体化や育児パロ、夢を中心にさんざん自己投影している作品はキモいとぶっ叩かれていたのを見て育ってきたので、未だにふと作品を描くたびに「これは自己投影していて臭いのではないか……?」という幻肢痛のようなものに襲われます。
そもそも自己投影できるほど、推しちゃんのような充実した生活は送ってないにも関わらずです。
なんぼ自己投影して臭くても超絶技巧で殴れば文句言えんやろと、画力と構成力をあげ続ける蛮族スタイルでこれまで来ましたが、もう少し文明的なマインドセットがあるなら知りたいところです。
当時も今も直接狩られたこともなく、狩られているのを横から見ていたのを元に自縄自縛してる状態で、取り止めのない悩みなのですが、ネタになりましたら幸いです。
よろしくお願いします。