作家が「急に」売れたら、どうなるの? 小説家・朱野帰子が同人誌で『急な「売れ」に備える作家のためのサバイバル読本』を出した理由とは
インタビュー/藤谷千明
テレビドラマ化され大ヒットした『わたし、定時で帰ります。』で知られる小説家の朱野帰子さん。「お仕事モノ」に定評のある朱野さんが初めて発表した同人誌が、予想しないタイミングで予想以上に急に「売れ」てしまったことで発生する諸問題、そしてその対策や回復過程をまとめたハウツー本、その名も『急な「売れ」に備える作家のためのサバイバル読本』です。
売れてること、人気作を生むこと、評価されることはいいことなのに、なぜ「サバイバル」なんてタイトルを? そう思われるかもしれませんが、実は「直木賞を受賞すると寿命が三年縮まる」という研究もあるのだとか。いいことばかりではない、むしろ「いいこと」だからこそ、見えにくい、周囲に相談できないトラブルや悩みも存在するのです。
本書を発表するやいなや、作家の方はもちろんのこと、様々なジャンルで活躍する方々からの共感の声が集まりました。今評価されていなくても、いつか突然バズって評価されるかもしれない。それは商業作家ではなく、同人作家にも、pixivクリエイターにも、私にも、誰でもいつか起こりうることかもしれません。
朱野さんが「急売れ」本を制作した経緯、初めての同人誌即売会体験から、「書き続ける」ための仕事との向き合い方など……、様々なお話を伺ってきました。

- 朱野帰子(あけの・かえるこ)
小説家。マーケティングプランナーとリサーチャーを経て、メーカーに転職。2009年第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞。兼業作家を経て専業作家に。『わたし、定時で帰ります。』が2019年にドラマ化され話題になる。労働問題を語るための媒介となるエンタメ作品を作るというミッションをめざして毎日走っている。
自慢に見えないか心配だった
── 『急な「売れ」に備える作家のためのサバイバル読本』、とてもインパクトのあるタイトルですね。

── 本来なら歓迎すべきことのはずなのに、隕石のような「売れ」の場合は自分自身に多大な影響が出ることもあり、それはメリットだけではない、と……。絶妙なネーミングに惹かれて手に取った読者も多いと思います。
朱野:私は働くことについて調べたり書いたりするのが好きで、いわば「労働のオタク」なんです。だから、労働についての同人誌を作りたくて。ただ、このタイトルも最初は「自慢のように受け取られてしまうのではないか?」と、不安があったんです。
── いわゆる「自虐風自慢」と思われてしまう…的な?
朱野:はい。なので、周囲の作家さんにも相談してみたんです。そうしたらタイトルを見た瞬間、「読みたい!」「むしろ私も書きたい!」と大笑いしてくださったんですよね。他にも編集者の方に相談したのですが、「これは必要な本です」と力強い返事が来て、「これならイケるのではないか」と思いました。
── 商業出版では何作も作品を刊行されている朱野さんですが、これまでに同人誌を作った経験はあったのでしょうか。
朱野:初めてです。今回は「技術書典」に参加しました。このイベントは事務局の方々のサポートが手厚いんです。そのおかげで書き上げられた面も大きいです。
技術書典経験者のアドバイス「ニッチなものが刺さる」
── 「技術書典」は、エンジニアの技術書がメインの同人誌即売会とのことですが、「同人誌を作る」ところから教えてくれるのですね。
朱野:「技術書典」はエンジニアの方たちが、溢れる技術への思いを本に託して伝えるための場所なんです。エンジニアは本を作ることに長けた人ばかりではないので、「技術書を書きたいけど、どうしたらいいかわからない……」という方に向けた勉強会の動画を、YouTubeチャンネルで公開しているので、それを見て私も勉強しました。
── 本を作る「技術」も提供してくれると!
朱野:この勉強会動画はすごく良く出来ていて、「どうやって書くの?」から、「印刷所への入稿の仕方」まで、同人誌を初めて作る人に向けて丁寧に教えてくれるんです。知りたかった情報がたくさん紹介されていて、同人誌を作りたい方はもちろんのこと、商業作家の方にもおすすめだと思います。
── 「執筆環境」「構成を考える」だけではなく、「PRと著者」なんて回もあるのですね。本当に勉強になりそうです。
朱野:技術書典に何度も出ている方から、内容面のアドバイスをいただいたことも助かりました。当初は「小説家の労働環境の改善」のような、もう少しふわっとした広いテーマの同人誌を作りたいと考えていたんです。これまでの商業出版での経験から「幅広い層を意識しなきゃ」と、少しすくんでしまっていたところ、技術同人誌を何冊も出していて、ヒット作も出しているご経験から「同人誌はニッチなものが一番刺さる」と背中を押してくださったんです。
── 「お前は俺か」みたいなネットミームもありますしね。
初めてのサークル出展、部数で悲喜交々
── 同人誌の制作が初めてということは、即売会でサークル出展した体験も初めてですよね。いかがでしたか?
朱野さんのnoteでは、「技術書典」への参加体験が綴られています。
── あるあるです! そういうことも、実際に経験しないとわからないことですよね。SNSでは発売前からかなり話題になっていましたが、会場ではどうなったのでしょう。差し支えなければ、最初に用意した部数を聞かせてください。
朱野:300部です。
── 「最初に作る文字の同人誌」としては勇気のある数字ですが、それこそ「急に売れた」というか「ヒット作のある小説家」としてはかなり慎重に感じる数字です。
朱野:同人誌の世界にも詳しい編集者の方に相談にのってもらったりして、最終的には勢いで部数を決めました。ですが……。
── ですが?
── 「あの、小説家の朱野さんが参加してる!」と人が殺到する感じではなかったと。
朱野:はい、通りすがりの人がパラパラとめくって、「あ、おもしろい!」と買ってくれるような感じでした。
── それはそれで、同人誌即売会の楽しさ、醍醐味ですね。
朱野:恥ずかしながら、最初は「私、イケるんじゃないかな?」と、ちょっと思っていたんですよ。人気の漫画家さんがコミケで行列、みたいな話は見たことありましたし、即売会には出たことはないけれど、いちおうヒット作もありますし……(苦笑)。
── 私が朱野さんの立場でも、同じことを考えると思います。予想外に残部が出てしまったと。
朱野:イベント撤収時に残部をクロネコヤマトに持っていくときに、「在庫が結構あるな、失敗しちゃったな……」なんて思っていたんです。
── 同人誌の部数は永遠のテーマですからね。
朱野:そうしたら、オンラインのほうではすでに200部以上売れていて、その時点で初版は完売で、反対にビックリしてしまいました。
── すごい!
朱野:でも、今度は「コストを考えると、増刷するくらいなら最初から多めに刷ればよかった」なんて(笑)。
── 繰り返しますけど、同人誌の部数は永遠のテーマですからね……。そして、朱野さんは「BOOTH」もご利用されています。
朱野:使ってみてわかったんですけど、本当に便利ですね。倉庫サービスを利用すれば在庫を預かってくれて助かりました。最近は自分のショップのダウンロード商品を贈るギフト機能まであるそうで、献本に便利だと思います。Amazonパブリッシングが日本では定着しないって議論があるんですけど、それはBOOTHのサービスが細やかすぎるからなのでは? と感じるくらいです(笑)。
会社員と違って作家の経験は共有されにくい
── SNSの反響を見ていると、作家さんはもちろんのこと、様々なジャンルのクリエイターがこの本に感想を寄せていました。
朱野:本当に色々な方からの反響がありましたね。「あなた、今まさに売れっ子じゃないですか!」みたいな方から感想DMが届いたりもしました。皆さん暖かい感想をくださって、最初に心配していたようなネガティブな反応は、ほとんどなかったです。小説家の新川帆立さんが、ご自身の連載で「経験している人が少ないから、情報がシェアされていない。だから『そういうもんだ』と理解されていない」と紹介してくださっていました。
── 「急に売れて困っている」存在が可視化されていないから、対策も見えてこないということですね。
朱野:会社員のように同じオフィスで一緒に仕事をしているのであれば、「管理職になったらこうなるんだ」みたいな、良い面も悪い面もある程度見えてくるものですよね。ですが、作家同士は生活の接点が少ないので、それがなかなか伝わってこない。
── それを本にしてまとめたということは、「サバイバルガイド」というタイトルのとおり「生き延びる技術」、本当に「技術書」ですね。
朱野:これは皆に起きるかもしれないこと、そのための「技術」の本なんです。だから「エッセイ」として作っていないんです。


他者評価に自らを委ねすぎず冷静でいるために
── 誰にでも起きること……。この本にある「よい評価でも悪い評価でも、評価されること自体が人にとってストレス」という内容が印象に残っています。外からは華やかな成功に見えても、「よいことばかりではない」と語る人は少なくありません。会社員でも社内で評価されたゆえに、急に仕事が集中してしまう事例もあります。あらゆる「急に」に対して、自分のメンタルを穏やかに保つにはどうしたらいいのでしょう。
朱野:私は「急な売れ」を経験したことで、小説が書けなくなった時期があります。その原因を自分なりに探ってみた結果、一番大きいのは他者評価に自分自身を委ねすぎていたことだと考えています。評価を期待と言い換えてもいいかもしれない。「もう一度『わた定』のようなドラマ化するような作品を!」という相手の期待にこたえようとしすぎていたんです。もちろん、ヒット作を次々と量産することができれば、周囲はすごく喜んでくれるはずです。自分のもとにもお金という形で対価は入ってきますし。ただ「それをずっとやっていきたいか?」と自問自答すると、そうではなかった。
── 他者評価に自分を委ねすぎて疲弊してしまうのは、創作の現場でもそれ以外でもあることですよね。自分ごとで恐縮ですが、フリーライターをやっていても、ひとつ記事がバズると似たようなものを求められたり、「ヒットしたあの記事を真似てください」という依頼が来たりもあります。でもそれが、自分の本当にやりたいことかというと……。
朱野:最終的に自分がどうしたいのか、何が欲しいのかを突き詰めることって、とてもむずかしいことなんですけど、「急な売れ」が来たときに、一回立ち止まってみることが大事なのかもしれません。
── 朱野さんは、メンタルを保つために、あるいは「書き続ける」ために、具体的にどういうことを実践されていますか? pixivの作家さんもバズったあとに、商業・同人問わず色々なオファーが来そうですし、そういうときに意識することを教えてください。
朱野:やはり一回立ち止まってみる……、具体的な例をあげると「仕事依頼への返事を急がない」ですね。私自身、そういう時に「私は仕事ができる女!」とハイになってしまって、キャパシティを越えた依頼を受けてしまったこともあったんです。そういうときは、1日2日くらい期間を置いて冷静になってから返事をしても大丈夫なのでは。そして、返事をする時間帯は、深夜は避けたほうがいいかもしれません。なぜなら判断力が鈍っていることが多いので(苦笑)。深夜に通販サイトを開いて買い物をして後悔することってありますよね。
── わかります(笑)。
朱野:ほかには、異業種の友達の意見を聞いてみるのもいいと思います。私も身に覚えがあるのですが、外の世界の人からみると、結構どうでもいいことで悩んでたりするんですよ(笑)。たとえば、私は「毎日キーボードを打ち続けて手を痛めてしまった、どうしよう」と悩んでいたんです。でも、パソコンに詳しいエンジニアの人からすれば「それはキーボードが悪いから良いものに買い替えたら済むこと」と一瞬で解決したことがありました。
── たしかに、同人や趣味の友達は異業種の人が多いからこそ、思いもよらない解決策を提案してくれるかもしれないですね。ちなみに同人作家さんの場合、「趣味だからこそ」「楽しいからこそ」ハイになってしまって、予定を詰めすぎてしまうこともあると思うんです。自分の周囲にも、本業が終わった後、夜中まで同人誌を書いて、また朝出勤して……みたいなスケジュールの人もいるのですが、少し心配です。
朱野:もちろん、同人誌を作っていて、私自身もとても楽しかったですし、入稿スケジュールを考えたらハードワークになってしまうのも仕方ないときってあると思うんです。それが終わったあとに、しばらく休みをとれたらいいですよね。そうだ、私は同人作品を読んでいて「すごいな」と感じることがひとつあるんです。
── どういった点が?
朱野:作品によっては、オフィスが舞台になっているじゃないですか。皆さん意識はされていないと思うんですが、ご自身の経験から書いてらっしゃるからか、お仕事描写が素晴らしいんです。私のような専業作家よりも臨場感があるというか……。読んでいて本当に勉強になりますし、好きです。……すみません、pixivのメディアということもあって、どうしても言っておきたくて……。
── さすが「労働のオタク」ですね!
「労働オタク」朱野さんのおすすめ作品
── そんな「労働オタク」朱野さんの作品は、働く人へのヒントが詰まっていると思います。中でも、pixivユーザーにおすすめしたい作品を教えてください。
朱野:まずは、絶対に定時で帰りたい女性会社員が活躍する『わたし、定時で帰ります。』(新潮社)ですね。この作品もちょっと色々あってグレていたというか(笑)、商業作品ですが、ある意味では同人誌に近い気持ちで、「もう、自分と似た立場の人、氷河期世代の会社員の人だけがわかってくれたらいい!」と、読者を絞って振り切って書きました。
── それがむしろ「お前は俺か」と、多くの人に読まれる作品になったのですね。
── すごく面白そうです。
── その難しさ、創作活動をしている人は、「わかる!」と思う人も多いかもしれませんね。
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