炎上がこわい創作者は「炎上の可能性を想像できる」才能がある/カレー沢薫の創作相談

炎上がこわくて発信できない
「このゲームに出会ったことで私の人生がキュルった」と私に因縁を20年つけられ続けている乙女ゲー「ときめきメモリアルGirl’s Side」の最新作が発売されるとのことですが、こういった高校が舞台の乙女ゲーを見るたびに「乙女ゲーの中とはいえ、我々はいつまで教師と恋愛ができるのだろう」と、チキンレースを見ているような気分になります。
先日も現実世界では、教師が生徒とつきあいキッスまでしたと大事件になっていたので、もはや今のご時世、教師が生徒とつきあうなど、八百屋が売り物のきゅうりを貪り食うようなもの、もしくは八百屋が自分のきゅうりを客に(以下略)と、とにかく言語道断です。
いくらゲームの中の話で、「卒業式の後だからノーカン」「3作目以降は生徒の方から告るようにしました!」といってもそろそろ厳しい、むしろ1、2の教師の変態ぶりが際立った感さえあります。
ちなみに「キュルった」などと言っているのも、それに該当する漢字が使えない媒体が増えているからでもあります。
使えなくなってみて初めてその言葉の使い勝手の良さを思い知るものであり、それに代わる言葉を探した結果「私の人生がクレイジーゴナクレイジー」という、突然カラオケにも飽きちゃった人になることもしばしばです。
しかし、現実でできないことをいとも簡単にやってのけるDIO様ムーブをするためにフィクションが存在するのであり、むしろ現実でやってはいけないことをフィクションで成仏させることで、現実の治安を守っているのだとも言われてきました。
この「フィクションが現実に与える影響」に関する論争は、さすがのきのこたけのこにも「あの戦争の陰惨さには負ける」「不用意に近づくとクッキー部分が砕けてアポロみたいになる」と恐れられる、苛烈かつ決着のつかない戦いでした。
しかし、完全決着することはなくとも現在は「例えフィクションであっても現実の倫理に反することは描くべきではない」という考えの方が優勢であることは明らかです。
もはや「フィクションなんですから」という言い訳は通用せず「まあまあマンガの中なんですから殺人ぐらい」と言う人間を「マンガでも人を殺していいわけないだろ!」と斬首しているような情況です。
未来の不適切表現まではわからない
さらに昔であれば、作品の不適切表現への抗議は編集部へ直凸というクローズドな環境で行われていたのですが、最近はそういうお気持ちはとりあえずSNSに書いてみるのが主流になっており、さらに作者本人もSNSをやっていることも多く、作者という存在がより可視化したことにより、昔よりも作者と作品を同一視する向きが強くなったように感じます。
つまり発表した作品に不適切な表現があると、すぐさま広がり、秒で作者の人格攻撃にまで発展する恐れがあるということです。
またご相談にもある通り、描いたときに不適切じゃなかったことも、時がたって不適切になってしまうということもあります。
クレゴナ(略称)も近い将来、そんな不適切な言葉を二回も言った上にゴナするなんて正気かと炎上してしまう恐れは十分にあります。
さらに1回燃えてしまうと「昔は、コギャルはみんな普通にゴナしてたんだってばよ」と言い訳しても、聞く耳持ってもらえない、それ以前にコギャルが通じないし、そのふざけた語尾はなんだと怒られるなど、弁明が火に油になるケースも珍しくありません。このように、気をつけたくても未来の不適切表現までは気をつけられない、さらに弁解もできないという昨今の炎上を見ると、創作のみならず「世に何か発信するのが怖い」となってしまうのも当然です。
最強の炎上対策
炎上に対する最大の防御はやはり「発表しない」ことです。
私が10日に1回ぐらいしか外に出ないのも「あらゆる災厄は外に出たせいで起っている」という真理に到達したからであり、根源さえ断てば問題はほとんど起きなくなります。
同様に炎上も火種になる発信をしなければ「自宅がリアルに燃えた」以外の炎上とは無縁になります。
炎上するのが嫌だから、創作は発表しないというと、自意識過剰、日和見、ピッチャービビってる、などと言われるかもしれませんが、逆にSNSやユーチューブ、そしてpixivなどで、誰でも気軽に全世界に作品の発表やお気持ちの表明ができるようになったせいで「何か発信しないとダメ圧」や「創ったなら皆さんにお見せしなきゃ圧」が強くなりすぎているようにも感じます。
発信できる環境があるのだから、絵や小説を書けるのだから、発信しなきゃいけないということはなく、自由に発表できるのと同時に「発表しない自由」もあります。
あなたが、創作を発表する喜びより、万が一炎上したらという恐怖の方が勝るというなら、発表をやめるというのは炎上対策としてはもっとも効果的で、正しい判断です。
もし創作発表はなんとか続けたいというのであれば、創作の発表だけに徹し、作者の人格は一切出さないという手もあります。
作家の中には、作品と自分を同一視されたくないので、SNSは一切やらないしメディアにも出ない、という大変クレバーな方もいます。
確かにそういう人の作品を読んで、負のお気持ちが湧いたとしても、何せ作者の姿がうすらぼんやりしており、石を投げたところで「残像だ」という感じで手ごたえがなく、それ以前にSNSなどを一切やってないため、石の投げ先がなく、作品が燃えたとしても作者への個人攻撃には繋がりづらいものです。
一方で、SNSに個人的なことをガンガンつぶやいている作者の作品が燃えると「前からあの作者の言動はいかがなものかと思っていた」というモヤってた勢が一気に発火し、作者もろとも灰になるまで燃えやすくなります。
そのような、本能寺と織田信長の関係にならないように「俺は本能寺を建てただけの名もなき大工」という姿勢を取っておくのも大事です。
具体的にはpixivのアカウントだけ持ち、ツイッターはやらない、プロフィールも作者像を想像されないように簡潔にする、コメントも最初から「返信しない」と明記し、無駄な交流はせず、ただ淡々と作品を投稿するだけに使う、などです。
プロフィールも簡潔にと言っても「趣味は人間観察、日々是精進!」では逆にこれ以上なくパーソナリティが出てしまうので、作品の傾向や、読む前の注意など、いざというときにエクスキューズになる作品に関しての特記事項のみを簡潔に書くことをお勧めします。
それでは、アツい感想をもらったり同志との交流ができたりせぬではないか、と思うかもしれませんが、外出したから災厄に遭うのと同じように、あらゆる問題は人間と触れ合うことで起こるので、炎上リスクを少しでも下げたければ「非外出・不交流」というガンジー精神も重要です。
本能寺が「これ、すごくね?」と話題になれば「拙者が本能寺の中の人、信長です」と出ていきたくなるものですが「出る杭は打たれる」のと同様に「前に出過ぎな中の人は燃える」と言います。
燃えたときに作品と同一視されたくないなら、平時やウケてるときでさえ出過ぎない、というストイックさが大事です。
炎上にも才能が必要
また、今の炎上社会を見て「少しのことで何でもすぐ炎上してしまう」と恐れているかもしれませんが、実は「そうそう燃えません」
何でも炎上しているように見えて、その下にはその数億倍のシケモクが落ちているのです。
私も10年作家をやってきて「これを発表したら物議を醸しだすかもしれない」と、編集共々身構えたこともありましたが、現実は火どころか「無風」であり、鳴らない電話を前に腕組み、ということがほとんどでした。
炎上界も何でも炎上できるほど甘いものではなく「炎上する才能」が必要なのです。
そもそも「これは炎上するかもしれない」と思うような奴は、炎上する才能がありません。
世の中の歴史的大炎上は大体「これをやったら燃えるかも」という、想像が1ミリもできてない人や、自分が燃えるなんて夢にも思っていない人が起こすものです。
想像が出来ていれば、発表をやめたり、発表するにしても「不適切かもしれませんが作品に必要な表現と判断し掲載しました」など、先手を打って注意勧告したり、燃えた際も燃えたときの対応を考えているので、そこまでの大火にはならないし、なれません。
つまりここまで炎上することを想像しているあなたは、炎上の才能がありません。
自分で自分の臭いには気づけないと言っても「臭い可能性」を想像できるなら「じゃあ外に出すのはやめとこう」という判断をしてしまい、炎上チャンスを逃します。
逆に、あなたは炎上する才能は皆無ですが「炎上の可能性を常に想像できる」という現代の創作者にとって必要な才能を持っていると言えます。
炎上というのは「他者を傷つけること」でもあるので、それをそこまで心配できるあなたなら、誰も傷つけない、逆に傷ついた人を癒せるような良い作品を描けるのではないかと思うので、出てない火を恐れて描かない、というのももったいないかと思います。
あと、炎上には才能も必要ですが「そこそこの知名度」も必要だったりします。
よって炎上の心配は、ある程度有名になってからでも良い気がします。ちなみに私程度では燃えません。

カレー沢先生こんにちは!
私は決して若くないことを自覚している字書きです。
目まぐるしく移り変わる昨今の情勢、ヤングの感性との溝を埋めつつ、SDGsの時代を生きるためになんとか自分の考えをアップデートしていこうともがいた結果、「自分が気づいていないだけで、この作品のどこかに現代倫理にもとる表現があるのではないか?」「自分が当たり前に使ってしまった表現がきっかけで炎上するのでは?」「たとえ今は大丈夫でも、数年後に価値観が変わり、批判の的となるのでは?」と考えるようになり、作品が書けなく(発表できなく)なりました。
考えすぎだと思われるかもしれませんが、世の中の炎上案件において、行った本人はそれが悪いことだとは思っていないものです。自分の中では普通のことと思ってしまっているのです。よく自分が怪物になったらトドメを刺してくれという例えがありますが、自分の体臭に気付けないのと同じで怪物は自分の変異に気付けないですし、トドメを刺してくれる真人間もいなければ、トドメを刺してくれるはずの人も怪物になりかけているから刺せない、ということだってあるのです。
特に小説やマンガ、ストーリーがあるものは作者の思想の表れが顕著です。得られる評価より発表するリスクの方が大きいなら、作品を書かないほうがいいのでは……と思うようになり、つぶやき自体も減っています。
いつもきちんとした意見を仰ってくれるカレー沢先生は、いかがお考えでしょうか。